「薄っぺらい」という意味

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薄っぺらさとは

本当にそれは薄っぺらいのだろうか

「この本の内容は薄い」「この人は薄っぺらい」などという言葉がある。その意味はおおむね、考えが浅かったり、思慮が足りないことを指したりしている。それはそれで間違ってはいないだろうが、この薄っぺらさは本当に薄っぺらいものなのだろうか。

期待はずれであれば確かに薄っぺらい

薄っぺらいということ。確かに自分の思ったことより内容が乏しかったり、期待はずれの内容であれば文句の一つくらい言いたくなる。「話していることが冗長で印象に残るものがなかった。単に内容がくだらなかった。深い感銘を受けるものではなかった。そう言いたくなる気持ちもわかる。

しかし、薄っぺらさは個人による

しかし、この薄っぺらいという印象は、他の人にとって必ずしもそうではないと思われる。思うに、薄っぺらさを感じる度合いは個人の知識や経験に大きく依存する。だから、個人によって抱く印象も当然異なってくる。つまり、薄っぺらさは自分の主観から生まれるイメージである。自分基準で内容を評価し、期待はずれであれば大したものではなかったと評価する。

自分基準で評価するのは傲慢である

満たされるのは知識欲だけである

しかし、自分が知っているか知らないかで物事を判断するのは傲慢である。内容が薄いと感じるのは想定の読者を考慮してのことである。それを考えなければならない。その人が持つ背景知識が十分であればていねいに解説しなくてもいいし、わざわざまわりくどい説明をしなくても十分である。しかし、そうではない場合、理解するのに必要な過程を省略すればわかるものもわからなくなる。満たされるのは「博識な人」の知識欲だけである。

相対評価に変えること

したがって、このような自分基準で「薄っぺらい」と判断するのは愚かである。他者の視線を含めた上での評価をし、相対的な評価に変えた上で「薄っぺらい」と評価をするのが正しいあり方であろう。一般的に使われている「薄っぺらさ」というのは、自分基準の「薄っぺらさ」である。

どのように変えるべきか

では、どのように絶対評価から相対評価へと「薄っぺらさ」を変えるべきだろうか。もちろん、他者の背景知識を考慮することは明らかであろう。他人の視点にならなければ自分だけの主観に陥ってしまうからである。こういったことが起きる原因も背景知識の理解不足から来ている。

みんな一緒の弊害

日本の同質社会

つまり、みんな考えることはみんな一緒。今更こんなあたり前のことをいわれても、知っていることをくどくどされてこまる。という日本の同質社会が自然とそのような素地を作り上げているのである。これには、自分が知っている話はするな=他人が知っている話をするなという思い込みがある。

背景知識を考える

しかし、生まれる場所も違えば、時間も違う。生まれる家庭が違って、育った環境が違えば、自ずと考え方も違ってくる。このことを意識して、考えを変えなければ絶対的な「薄っぺらさ」は変わらない。前提として背景知識を考える力が抜けているからである。それを踏まえた上で「薄っぺらさ」をもう一度考慮しなければならない。

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