殺人動画で感じる違和感

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ツイッター界隈にて

殺人動画がトレンドに

先日、ツイッターのトレンドで殺人動画が流れた。鉄パイプのようなもので殴りつけ、死にいたるまでの一部始終を流していたらしい。場所は名古屋の栄というところ。その動画をアップロードしたら炎上したとのこと。

原因は不明

原因は今のところ不明。恐らくは恋愛関係の流れか何かであるが、私が驚いたのは動画を流した本人に対してではなく、ツイッター界隈での反応であった。

正義感

「人が死んでるのを黙ってみてるなんて、人として許せない」「興味本位で動画流すな」など、そういった正義感についてであった。もちろん、殴っている人を止めないのは悪いことであるし、ただ口に任せて「やめて」と言ってるだけでは効果はないのは明らかであろう。殺人行為をやめさせるには実際に拘束しなければ不可能なことである。

それらは本当に非があるか

それはそれとして、「ただ黙ってみてること」や「動画を流すこと」については非があるかどうか、改めて問う必要はないだろうか。たしかに黙ってみてることは社会的には悪かもしれないが、凶悪な殺人鬼を目の前にして行動を取るのもいささか勇気があるのではないだろうか。

捕まえるにはリスクがある

何せ相手は凶器をもっている。そして、こちらには守る防具がない。しかも、相手が興奮状態にあると、不用意に制止することは命の危険も伴う。無策に飛び込んでいいわけでもないのである。犯人を威嚇せず、安全に捕まえるにはある程度の訓練が必要なのである。

動画を流すこと

「動画を流す」行為についてはどうだろうか。ある意味では野次馬であるし、またある意味でSOSの意味でもあるだろう。後者のSOS、つまり、自分の精神を落ち着かせるために動画を流した場合、必要なのは本人の心のケアであって、「許せない」こととしての懲罰ではないはずである。

誰しも好んでしているわけでもない

誰しも好き好んで犯人の行為を看過してるわけでもないし、好き好んで動画を撮っているわけでもない。社会的な観念、「こうしなければならない」ことに背くだけで、現場にいた人を責めるのは間違っている。また、その人たちの気持ちを決めつけるのも間違っているだろう。自分たちが実際に立ち会わせたとき、犯人をとめるという理想的な行動が取れるかどうかも疑わしい。

重要なのは、正義感ではない

重要なのは、そういった正義感からくる行動ではない。無責任に行動を促し、命を失うことではないはずである。また、動画を流すことでその人の心の安定が取れるであれば、必要悪にせよ責められることではないだろう。重要なのは、そういった人々に対して想像力を働かせ、その場にいる人たちの行為の意味を探ることではないだろうか。そうでなければ、行動を取らない人の気持ちがいつまでたっても理解できず、非難し続けることになるだろう。

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