道徳の学習要領にツッコミを入れてみる

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道徳教育について批判はたくさんある。しかし、具体的にどのへんがいけないのか。昔から多くの人が意見を述べてきたが、自分なりの見解をふまえて指摘していきたいと思う。しかし、実際の学習要領を確認しながら見ていった方がわかりやすいと思うので、ピックアップという形で記載する(参考:http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/doutoku/)。

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友情,信頼

〔第1学年及び第2学年〕 友達と仲よくし,助け合うこと。

〔第3学年及び第4学年〕 友達と互いに理解し,信頼し,助け合うこと。

〔第5学年及び第6学年〕 友達と互いに信頼し,学び合って友情を深め,異性についても理解しながら, 人間関係を築いていくこと。

(中学校) [友情,信頼]
友情の尊さを理解して心から信頼できる友達をもち,互いに励まし合い,高め合うとともに,異性についての理解を深め,悩みや葛藤も経験しながら人間関係を深めていくこと。

友達と仲良くすることは悪くはない。人生において一生かかわりのある人とめぐりあうことができるかもしれないし、それによって自分の人生をよりよくすることもできる。

しかし、仲良くするということは相応のデメリットもあることを忘れてはならない。人は良い意味でも悪い意味でも自分と似たような人間と和をつくり、仲良くするからである。日本ではやたら良い意味での仲良くすることが強調されているが、その半面で副作用も当然としてあるのである。

つまり、自分たちと価値観の異なる者については敵とみなし、排他的になってしまうのである。それが大人数vs大人数であればまだマシなのかもしれないが、大人数vs少数だとどうなるか。

いうまでもなく、少数派の人間が追いやられてしまうだろう。そして、精神的または身体的な攻撃がされるようになり、いじめに発展してしまう。

仲良くなって友情を作るということは、いじめをつくる原因にもなりえるのである。

相互理解,寛容

〔第3学年及び第4学年〕 自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,相手のことを理解し,自分と異なる意見も大切にすること。

〔第5学年及び第6学年〕
自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,謙虚な心をもち,広い心で自分と異なる意見や立場を尊重すること。

(中学校) [相互理解,寛容]
自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び,自らを高めていくこと。

自分の意見をもち、他人の意見も尊重することはかねてから教育されてきた。しかし、日本人は議論が下手で、他人の意見も尊重ができないことも指摘されてきた。

それはどうしてか。そもそも日本人は議論の意味を理解していないし、それを教える学校の先生も意味をわかっていなかったのが原因としてあるだろう。

議論は人との対話である。決して口喧嘩などではなく、論破のための道具でもない。批判も中傷という否定的な意味をもつものではなく、意見ついて検討・分析することである。

こういった視点を日本人は持ち合わせていないため、自分の意見をもち、相手の意見を尊重することができなかったのである。

できないことをやれと言われてもできるものではない。したがって、必要なのは正しい議論の方法を学ばせることだろう。

公正,公平,社会正義

〔第1学年及び第2学年〕 自分の好き嫌いにとらわれないで接すること。

〔第3学年及び第4学年〕 誰に対しても分け隔てをせず,公正,公平な態度で接すること。

〔第5学年及び第6学年〕 誰に対しても差別をすることや偏見をもつことなく,公正,公平な態度で接し,正義の実現に努めること。

(中学校) [公正,公平,社会正義]
正義と公平さを重んじ,誰に対しても公平に接し,差別や偏見のない社会の実現に努めること。

誰にでも平等に接しろということだろうか。しかし、全員に同じように接することは現実的に無理があるだろう。実際に社会に出て働いている人がどれだけそれを実行できているか。想像するのはたやすい。

自分の好き嫌いにとらわれる必要がないのはべつに構わない。しかし、「接する」という行為自体は義務にするべきではないだろう。

つまり、強制的に人と接するようにするべきではなく、人間関係を束縛させるべきではないのである。

もしそれが良い方向に続くのであればそれは問題ないかと思われるが、いじめは人間関係の強制からできるものである。

とくに悪い方向に進んだ場合はそういった束縛から人を逃れられないようにしてしまう。

また、嫌いでも接し続けていくうちにできるものは、ゆがんだ心であり、建前の態度である。建前の態度は社会的には望まれる姿勢ではあるが、表と裏のある人間をつくりだすべきではないだろう。

こういった面を考えると、人との関わりは強制するものではなく、また閉じ込めるものではないのである。

家族愛,家庭生活の充実

〔第1学年及び第2学年〕 父母,祖父母を敬愛し,進んで家の手伝いなどをして,家族の役に立つこと。

〔第3学年及び第4学年〕 父母,祖父母を敬愛し,家族みんなで協力し合って楽しい家庭をつくること。

〔第5学年及び第6学年〕 父母,祖父母を敬愛し,家族の幸せを求めて,進んで役に立つことをすること。

(中学校) [家族愛,家庭生活の充実]
父母,祖父母を敬愛し,家族の一員としての自覚をもって充実した家庭生活を築くこと。

子どもは親を選べないし、小さいうちは親に反抗することはできない。いわば奴隷のような状態にある。したがって、敬愛という感情は親と親しくなければできないことであり、家族愛なんてもってのほかだろう。

親も一人の人間である。合わなければ嫌いになるし、嫌いであれば尊敬する気持ちは起こらない。それなのに、尊敬しろというのはいささか傲慢な態度である。

確かに子どもは親によって育てられる。しかし、育てたからといって尊敬の対象にはなるものではないし、何をしていいものではない。必要なのは、親を他人として認識することである。親は特別な人間ではないのである。

郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度

〔第1学年及び第2学年〕 我が国や郷土の文化と生活に親しみ,愛着をもつこと。

〔第3学年及び第4学年〕 我が国や郷土の伝統と文化を大切にし,国や郷土を愛する心をもつこと。

〔第5学年及び第6学年〕 我が国や郷土の伝統と文化を大切にし,先人の努力を知り,国や郷土を愛する心をもつこと。

(中学校) [郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度]
郷土の伝統と文化を大切にし,社会に尽くした先人や高齢者に尊敬の念を深め,地域社会の一員としての 自覚をもって郷土を愛し,進んで郷土の発展に努めること。
[我が国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度] 優れた伝統の継承と新しい文化の創造に貢献するとともに,日本人としての自覚をもって国を愛し,国家及び社会の形成者として,その発展に努めること。

国や郷土を愛する心をもてと書いてるが、そもそも愛国心の植え付けは憲法に違反する。国を愛するかどうかは本人の自由であり、他者がどうこうする問題ではないはずである。

それに、国に住んでてそれが本人にとっていい国であれば自然と愛国心は育っていくし、逆に悪い国であれば愛国心は育たないものである。

それを強制するということは、今の日本という国がいい国ではないことを暗に認めてるに等しいだろう。最近の日本スゴイ系の番組についても同様である。いい国ではないから、自分の国がいかにすごいか、それを語ろうとする。国単位であれば、危険な行為である。

まとめ

道徳の指導要領に書いてあるものにツッコミを入れてみたが、ほんとうにそれが必要なのかどうか、疑わしいものがたくさんある。

いったい大人たちは道徳をどのようなものとして考えているのだろうか。愛国心については政治家の都合が介入されている気もするし、家族愛も同様に振り回されている気もする。

そもそも心という推し量れないものを無理に評価付けして決めようとする教育は、やはり特定の思想を植え付けることにもつながるので、むしろいらないようにも思える。

大人たちの都合を子どもに押し付けてはならないし、大人にとって都合のいい子どもをつくろうとするべきではない。こういったことは大人たちは理解しているのだろうか。

 

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